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最上義光が築いた「組織風土」と最上騒動

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第39回

■幕府の介入でも治まらなかった最上騒動

 

 廃嫡後に義康が暗殺されたのは重臣里見民部の独断によるものだったとも言われており、すでに義光の晩年から最上家は制御を失いつつあったようです。二代目藩主である家親は、1614年に豊臣家と懇意である事を理由に清水義親を誅殺しますが、これも一門衆や重臣を弱体化させるためだったとも言われています。

 

 しかし、その家親もわずか3年で急死してしまい、子の義智(よしさと)が13歳で家督を継承することになります。そして、この継承を契機に、一門衆と重臣たちが、義智派と義光の四男山野辺義忠(よしただ)を推す派閥に分かれて争いを始めます。

 

 これは義智の能力不足が発端と言われていますが、当主権力の強化を目指すグループと現状維持を望むグループとの権力闘争の面もあったようです。

 

 この騒動は幕府を巻き込むほどに発展し、一旦最上領の大半を召し上げて、義智が成人した後に再度引き渡すという調停案が出されますが、山野辺義忠や鮭延秀綱たちは義智の家督承継を断固拒否します。

 

 幕府は統制がとれない最上家の状況を重くみて、改易を申し渡します。義光が築き上げた山形藩は、その「組織風土」が原因となって消滅することになりました。

 

■組織を崩壊させる事もある「組織風土」

 

 義光が一代で急激に拡大できたのは、戦だけでなく外交や調略の成功が大きな要因でもありました。ただ、その一方で、一門衆や重臣たちの発言力が強くなってしまい、家親や義智は苦労することになります。

 

 最上家は義光というカリスマ性のある人物が当主であったからこそ、制御できていたとも言えます。

 

 現代でも、創業者のカリスマ性によって抑えられていた重役やベテラン社員が、代替わりした途端に制御不能になり組織が崩壊寸前になる事例はよくあります。

 

 もし、義光が最上家の課題を先送りせずに、生きている間に中央集権化を図っていれば最上騒動は起きなかったかもしれません。

 

 但し伊達家でも同様の状況で御家騒動が起きているように、集権化はどの藩も抱えていた大きな課題でした。

 

 なお、最上家は5千石の交替寄合の旗本として家名を残し明治を迎えます。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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